谷屋未遂

2/3の好奇心

パンはパンでも食べられないパンはなーんだ。

 

こんなものを書いているが、私は一応大学生である。

普段のtweetを見ておられる皆様方は、谷屋の在籍している学部は文学部だと思われるのではないだろうか。私自身でさえそう思う。実は入りたかった。来世は入る。国文学者になる。でも小説家にもなりたい。いや、そもそも来世でもこんな調子で生きていくのか。というか来世はあるのか。我々はどこから来てどこへ行くのか。私は私なのか。それともゴーギャン

 

落ち着こう。

 

ともかくも、私は現時点では社会科教員を目指す身となっている。

その理由はおいおいまた話すとしよう。

 

光陰矢の如しというが、私の体感としては矢を通り越して「光陰リニアモーターカー」なので、うかうかしていたらすぐに採用試験が開通……もとい、始まってしまう。

というわけだから、教授もわたわたと教員採用試験のための対策を始めている。2年生のこの時期から論文指導をしていただけるというのだからありがたいことだ。

 

自慢ではないが、私は文章に自信がある。

読書感想文は県内2位にまで選ばれ、高校時代には3年間で1500冊を読んだ身だ。はっきり白状するが、講義で配られた原稿用紙をドヤ顔で受け取ったのは間違いない。

 

テーマは「『笑顔』から想起されるテーマとその設題理由、またそれらを自身の教育観と関連付けて論じよ(60分)」

 

はっはーん。なるほど。

つまり『笑顔』から連想されることを自分の理想の教育に当てはめて書けばいいんやな?

上等上等。こんな程度ならすぐにでも。

 

ものの20分ほどで書き上げ、誤字脱字をチェックし終わった私は「舞台/西加奈子」を読むなどして、その余裕ぶりをこれでもかというほどまざまざと講義室の空間に見せつけていた。

 

 

………………はずだった。

私の論文は完璧だったはず、非の打ち所がないと賞賛されこそすれ、何故だ。なぜ目の前の教授は笑っているのだ。そんな形で笑顔を論じた覚えはない。

研究室で返却を待つ私は言いようのない不安にかられた。この私が一体何を間違えたというのか。

 

※1番の爆笑をとった部分だけ抜粋しますので皆様も考えてみてください。

タイトルは「『会話』をするということ」

 

 

……(省略)私が児童生徒であった時期から今日に至るまで、私の趣味は読書や映画だった。休日には部屋に山積みの小説を横に、DVDのディスクを再生するという生活を送っていた。振り返ってみると、圧倒的に一人でいる時間が多いのだ。しかし、私は登場人物の言葉やその世界そのものに共鳴しながら「会話」をしていた。少々一方的ではあるが。(中略)  とはいえクラスメイトとの会話とは異質である。小説を読みながらにやにやしたり泣いたりしていても傍目からは怖がられるだけだろう。私でさえ怖い。脳内で世界が完結していては、自らが感情の発信者となることは難しいのだ。………

 

いや。

小説やんこれ。自伝的小説やん。

 

冷静になった頭で、教授に恐る恐る尋ねた。

「……論文、ではない、ですよね」

「文章力自体はめちゃめちゃあるけど意味無く発揮してる感じだね。あ、別に褒めてないよ」

「っ、かっ、てます!!!けど!!」

 

つまり私が20分間書き連ねたものはある種のエッセーであったという。文章は文章でも、全くその意図が違っていたのだ。

テーマにぶれなくとも。論理に一貫性はあっても。言葉の使い方は外していなくても。

私は論文を書いてはいなかったようだ。

 

そんなことがあって良いものか。

周囲がゆるゆると書いているのを見ながら少々なりとも優越感を感じていた昨日の私をぶん殴りに行きたい。論文と書かれたプラカードの角で、無駄な知識ばかりを詰め込んだその額に風穴を開けてやりたい。

 

思い知れ。お前は論文が書けないんやと。お前は、ただ小説が好きなだけの凡人やと。よく考えたら論文系統の賞は貰ったことないやろと。

 

 

そして今は山ほど赤の入った原稿用紙を片手にチキンラーメンを啜っている。

私が論文を書ける日は来るのだろうかと憂いながら。